ゴリラ、してますか?

コロナの中で、そしてコロナの後で、人間がどう生きるか? が全世界的に問われている。
AIによって奪われる職種は5年後10年後にどれくらいか、という話も数年前には話題になったが、コロナの比ではない。
急速に現実への打撃を与え、そのダメージは確実に現実を変える。
そんな威力を社会全体で全員が感じているから、AIによるショックとは影響範囲も時間スケールも違うのだろう。

そしてコロナへの対策としては、ソーシャル・ディスタンスが重要ということで、リモートでの勤務や交流が増え始めている。
ZOOMを始めとして、人間と人間が直接的な接点を持たないテクノロジーが注目を集め、本屋にはそれを今後の流れとして主張する書籍が溢れている。
テクノロジーの進歩により、ペストが流行した時代からは数段 ”進んだ” アプローチで現在の危機を乗り越えようとしている機運が高まりに高まっているようだ。
 
ただ、本当にそうなのだろうか?

リモート関連の技術により、直接に対面で会う必然性が仕事上では極端に減り、社会インフラを担う物流・小売に従事する方々など直接にモノを扱う必然性が有る場合を除けば、”対面”の価値は低い。

医療従事者の方も、直接治療する場合はもちろん対面で治療する必要があるのだろうが、特に軽症の場合であればリモート診断にした方が患者にとっても医者にとっても、感染リスクを軽減できるのではないか?
コロナ感染を特定する特徴量をパターン化し、PCR検査を実施しなくても感染リスクのレベルを判断するAIがあり自動化できれば、自宅で大人しくしていた方がよいと判断できる人間も増えるはずだ。

こういう風に、白黒はっきりさせること、そしてその判断情報を蓄積して判断機能を構築・改善していくことは、現代のテクノロジーは向いているのだろう。
でも、どこか、そこに無機質さを感じる。
”機械”のある種の冷たさを感じる。
これで、幸福に近づいているのか、モヤモヤする。

そんなモヤモヤについて、生物の見地から語ってくれたのが、この本だ。
前置きが長くなったかもしれないが、昨今のコロナ時代だからこそ、こういう原点回帰が必要なのではないだろうか?

人間もあくまで生物であり、人間の進化はそこまで急速ではない。
ICTのテクノロジーによる ”繋がり” と、身体的な五感を通した ”繋がり”とは、本質的には全く異なるものだ、という主張は、私のモヤモヤをそのまま指摘してくれた。
リモートワークで効率化は得られても、どこか安心できない気持ちになるのは、私が生物としての人間である以上、ごくごく自然な感情であったのだ。

ただ、その本質をズバリ指摘する情報は少ないように思う。
コロナをビジネスチャンスへ舵取りしたい人達が「こんな未来になる」という事をテクノロジーに立脚して主張することが、ほとんどである事が大きな理由であろう。

コロナによって、より効率化した社会を迎えることになれば、資本主義的な意味ではより豊かにはなるのかもしれないが、それは果たして本当に人間にとっての幸福なのだろうか?
人間は生物としての制約を抜けられず、まだまだアナログで、非効率で、非合理的で、だからこそアーテスティックでもあり、”生きている”感じがする。
今後は効率化が強く求められる一方で、「贅沢な非効率」も一定の需要が増えるのではないのだろうか。
それこそ、夜行列車や船で移動する旅行など、時間効率を度外視することは、究極の贅沢な気がする。

0か1か。そういう二元論ではなく、もっと色々な選択肢を認めてほしい。
西洋式の「排中律」ではなく、東洋式の「要中律」が求められている。
そう言う著者の山極さんの考えには、強く同意したい。

人生を山登りに例えることも多いようだが、山の登り方は人それぞれで良い。
それこそ、「登る山が違う」と言う人もいる。
目指すものも、目指し方も、個体差がありありだ。
それでいい。

今後も仕事上、テクノロジーに関わり続ける立場であるからこそ、
この本から得た学びは、忘れずに、しかと胸に刻んでおきたい。

そして、これを読んでくれた、あなたにも。
拙い私の言葉のなかで、あなたの琴線に振れる何かがひとつでもあれば、それに勝る喜びはない。

人につたえる、ということ

ブログを放置に放置を重ね、すっかり存在すら忘れていたのですが
今の自分には一周回って必要かと思い、筆をとります(この表現も時代錯誤かもしれないですが)

職業柄、Power Pointで資料を作る機会も少なくはなく、
「どうやったら、伝わるのか?」ということを考えることは少なくない私です。

ただ、そういう仕事が多くなったのはここ数ヶ月のことで、今まではどちらかというとPPTよりExcelを使う事が多かったです。
ただ伝えるというより、データの正確性という感じでしょうか?
色々と列を追加したりで、多くの情報を表の形式にまとめて、好きなことを熱く打ち込む!
そういうコミュニケーション・スタイルでした。
IT系というか、システムを作る仕事をしているからこそ、「正確性」が非常に大事だったからだと思うのです。

ただ、そういう「正確性」って、どこまで大事なんだろう? と疑問に思うことはありました。正確性を重んじすぎると、伝えたいことが伝わらないのです。

単純にデータから考えるととか、Fact(事実)ベースで話すと、というアプローチは大事ではあるんですが、何というか、あまり「キャッチーじゃない」んですよね。
嘘はいっていないし、過剰な装飾もしていない、という、いわば「すっぴん」な状態の情報をお伝えしているイメージ。

特に、お客様との打ち合わせなど、限られた時間で自分の考えている事や、調べたことを全てお伝えする、というのは無理な話だと思うのです。
でも、正確性を重視しようとすると、「これって、つまりこういうこと?」という素直な質問にも、簡単にはYesと言えない自分がいたりします。
自分が培ってきたマインドというか、癖・習慣に現れてしまっているもの。それが、自分の中に棲む、ある種の武器であると同時に、非常に邪魔な悪癖でもあるような気がしています。

私はもともと、広告のコピーライターなど、キャッチーな情報の伝え方をする職業というのは、素晴らしいものだな、と思う人種ではありました。
マンガも大好きですし、絵や図で伝えることは、言葉だけで無理やり伝えることよりも伝わるモノは多い、というのも十分理解できます。

でも、ダメなのです。
私には、まだ、絶対的に「表現する」ことへの経験値が足らない気がします。

おそらく、インプットは色々と多くしてきたのでしょう。
マンガで言えば、そんじょそこらの大人はもとより、中高生よりも読んでいるかもしれません(ただし、ヲタクのみなさんは除く)

私の昔の上司もそうですし、他の色々な皆さんがおっしゃっている言葉があります。

「量が質をつくっていく」

質と量はよく対比され、やはり高い質は求められる事は多い気がします。
ただ、質は始めからいきなりは養われない。
質はそれなりでも、まずは量をこなし、その量の積み重ねが糧となり、次第に質を高める為の方法が自分の中で培われていく。そういうものだ、と。
いま書いていて気づきましたが、「糧(かて)」という漢字にも、「量(りょう)」という字が入っているのですね。昔の人達も、同じような事を考えたのかな、という気がしてきます。

思えば、小学校の頃など、理由も分からず、ただ反復練習をしているような勉強(漢字書き取りや算数ドリルとか)をしていましたが、ああいうやりこみは決して無駄ではなかったのかな、と思います。

「写経」もそうですが、まずは始める事が大事ですね。
訓練しなければ、上手くなるものも上手くなりません。

そう思って、始めたブログなのに、見事に3日坊主になっていましたw


なかなか、簡単に外出できないこんな時期だからこそ、どんな簡単なことでも、誰か相手に伝える、という練習で、これからも下手なブログを続けたいと思います。

もっと短く、キャッチーに、ちゃんと伝わる文章を目指して。


変態設立事項って、ちょっぴりHな響き

タイトルは、クレヨンしんちゃんのヴォイスで脳内再生して頂ければ、と。

中小企業診断士の勉強は、ちょこちょことしているので、本年度の試験は1次試験も合格できるか、かなり怪しい赤信号ではあるのですが。
知識が増えないとどうしても正解できない、記憶系の分野に狙いを絞って勉強しようかと思っている訳です。

今は会社法に関わる所を勉強していますが、どうしてもタイトルの「変態設立事項」については、ツッコミせざるを得ない。
なぜ、こんな名前にしてしまったのか。
世の法律専門家は、おそらく会社法の基本くらいは普通に勉強するはずなので、皆さんこの部分の学習でニヤニヤしているのでしょうか。皆さん、ムッツリですね!
あまりこの名称にツッコミが入ったブログなどが引っかからなかったので、まぁ私が自意識過剰ということもあるかもしれません。

自分の知識の整理のために、変態設立事項が何物かということも簡単に記載しておこうかと。
株式会社を設立する時には、必ず定款(ていかん)を作成しなければならないのですが、その中でも必須記載の事項と任意記載の事項があるそうで。
例えば、ECサイトに会員登録する時に、必須入力項目と任意入力項目があるようなイメージかと。名前や住所など、本人を特定できる情報は必須ですよね。
定款でも、会社の目的、商号、本店の所在地、発起人の氏名・住所、設立に際して出資される財産の価格(一番最初の資本金となる認識)は必須の事項で、これらを定款の「絶対的記載事項」と呼ぶそうです。
任意の項目は「相対的記載事項」と呼ぶのですが、その中で株式会社の財産に関わる部分は、発起人の都合で過度なルールが設定されないよう、基本的に検査役がチェックしないと正式にOKにならない部分を「変態設立事項」と呼ぶそうです。

ふぅ。長いですね。
ツリー構造で図示すれば、それほど難しくないのですが、いかんせん、法律用語は漢字のオンパレードで、平易な表現にならないので、頭の中でうまく具体例をつけて読み替えないとよくわからないです。

ただ、法律の専門家が「大体のことは法律で説明できる」という視点を持つのはわかる気がします。
会計の専門家が会社の中の経済活動が全て会計的な処理として考えられるように、民と民とのやりとりは、民法が元になっているというか、大抵何かしらの”契約”が関係しているという感じでしょうか。
なにか新しいことを作った時にルールを作る、という観点で、法律の考え方は参考になることが多いと思いました。
(例えば、新しくゲームを作ったりする場合、どういうルールにすれば上手く回っていくか、というのを考えたことがあると、結構法律が上手くできている、と感じると思います)

なるべく、こまめに更新していきたいと思います。

法律の内容は、何度も書き出さないと頭に残りませんしね。

きらきらをさがして

いまさら。かもしれませんが。
まんがタイムきらら系列の芳文社な作品が好きかもです。

GWであることをいい事に、amazon primeな特権でいくつかの作品を観ています。
さきほど、『こみっくがーるず』を観終わりました。

芸術系の変人な集まりという意味では、『ひだまりスケッチ』にも近いものがありますが、実際にプロとしての悩みがある、という点ではこの作品の方が、より「産みの苦しみ」に向き合っている気がします。
ひだまりは、それはそれでよい作品ですが、学生の等身大な悩みというか、より日常に近い学生達の内面を描いているのかと。
芸術科の変わり者という、少し日常から遠い存在にあるような人たちも同じ様に学生の悩みを抱えて、傷つきながらも成長していくのか、という所に共感する要素があるのは近いかもですね。やんちゃアパート万歳です。

こみっくがーるず』は、プロとしての葛藤というか、「本当に自分は作品を生み出せるのか? 生み出しているのか?」という所に向き合う所が、いいのかなと素直に感じました。
成熟し切っていない事はわかっているし、まだまだ未熟な所があることは本人も周りも自覚しているけれど、それでも前に進むことでしか自分の存在価値は示せない。
例え周りと比べて下手くそと呼ばれようとも、自分自身の未熟さに自己嫌悪に陥ることがあろうとも、それでも前に進むしかない。
「逃げ出してもいいんですよ」という言葉は、プロである以上、なかなか掛けて貰えない。甘えなんて許されない。仕事としてある以上、半端だろうが自分の中で折り合いをつけて、自分が現時点でできる限りのものを出し切る。
そして、その結果の積み重ねで、自分の中の表現が少しずつ向上していく。

漫画というテーマで表面的に捉えるのではなく、その「漫画」が自分にとっての「仕事」や、もっと言うと「生き様」だとしたら?
そう思うと、なにかたいせつな事を教えて貰っているようにも思えます。
そういう勇気を貰える作品ではないでしょうか。


芳文社でいうと、『うらら迷路帖』もよい作品ですね。
けものフレンズが同時期に放送されたり、というタイミングに恵まれない放送の妙があった為、2期が制作される見込には暗雲が深く立ち込めているようですが、だからといって作品自体の価値が下がる訳ではないと思います。
占い師の修行を積み、いずれは頂点を極めるために努力に打ち込む、という所は似ている気がします。

こういう、「何かをつくる」とか「何かに打ち込む」というのは、自分の好みなのかもしれません。
例をあげるなら、『NEW GAME』とか、『ステラのまほう』とか。
あと、やや毛色が違うかもしれませんが、『ガーリッシュナンバー』とか。

こういう心動かされた作品に対して、自分の心情を吐露することは、自分の中の表現を高めることにもつながるのかもしれません。

世の中にアニメ作品や漫画作品は数多くありますが、少しでも多くの人に伝われば良いな、と願ってやまないです。
少しでもより優しく、美しい世界でありますように。

アウトプットで、あっぷっぷ

世間はすっかりGWモード突入ですね。公式に日本全体が10連休というのは、今後もなかなか発生しないのではないでしょうか。
自分も世間の例に漏れず、10連休になる訳ですが、4/26(金)は平成に仕事を残さないようにする、というより、令和から始める仕事を忘れないようにすることに終止しました。

そのために、自分やチーム内の関係者に対してメールを残しておいた訳ですが、そのメールが意外に大変でした。
日々、どれだけナーナーに仕事をしているのか、という事を思い知らされました。
限られた時間でアウトプットを出し切る、というのは、存外疲れるものですね。

自席だと集中しきれないので、没頭しやすい場所に移動して、ただひたすら現在の調査状況を記録し、今後の方針を示す、というだけの話ではあるのですが。
100%は完了していなくとも、70~80%は完了している状況と今後の懸念を「全体感をもって」整理する、というのは、まさに報告資料を作る作業なのでしょう。

そういうものをメールで書くのは、それほど苦ではないのですが、パワポに起こすとなると、それはそれで変に詰まったりしますね。
それは、自分がパワポにあまり慣れていないだろう、という所もありつつ、パワポがある程度視覚的であり、かつ「取捨選択をする作業」が求められるからだと想います。

今回は特に、無駄になるかもしれないけれど、とりあえず情報を出し切る、という事を優先したので、文章での整理で十分でした。
ただ、出し切った感がありありと出ていたので、午後3時くらいでほぼ疲れていましたね。やる気が底辺までダウンしてました。

こういう作業は、日々の仕事でも意識的にしておけば、効率的になっていくのかな? と改めて思いました。
量より質なこだわりがやはり自分の中にあるような気がしますが、上司が言うには質より量というか、「量が質を変えていく」ということです。
確かに、質にこだわってあまり量が出せないと、場数が少なくなるので、経験としては数をこなすのに時間がかかるという欠点はありますね。特に若い時期に成長したいなら、質にこだわり過ぎず、とりあえず限られた時間で量をこなしていけば、気をつけるべきポイントも自然と気づくようになって、質も徐々によくなっていくということのようです。

まだ、自分はちょっとのアウトプットでも、あっぷっぷな状態ですが、日々の積み重ねでバタバタしているうちに、徐々に効率化していければ、と。
溺れそうにあっぷっぷな状態でも、藻掻いて足掻いてしているうちに、なんとか溺れない様になる感じでしょうか。
そのうちに泳ぎ方を覚えていけば、アウトプットの大海原に漕ぎ出しても、ひとまず溺れずには済むのでしょう。
泳ぎ方の型やフォームは、我流より一般的な法が良い、というのはありつつ、その質にこだわり過ぎると逆に前に進みづらくなるので、時折はフォームを確認するという感じで。

何事も、バランスですね。バランス。
(この文章も、もうちょっと整理したら伝わり易くなる気がしますが、あえて原型そののままの、思いついたイメージをそのまま形にして残しています。)

かなりの期間、放置してしまいました。
なかなか続かないのは、よくない習慣ですね。
もともと、このブログは完全なる私の自己満足の塊であり、なおかつ、自分が考えていることをOutputする為の訓練の場、という位置づけで考えていました。
考えがまとまらない事を理由に何も投稿できなければ本末転倒なので、あまり難しく考えすぎず、想いのままに投稿するくらいが良いのだと思い直しました。

そんな中、ひとまず自分への記録も兼ねて書いておきたいのが、タイトルの栞についてです。
昔の少年サンデーの付録で、高橋留美子先生の作品のヒロインたちが6人勢揃いの栞6枚セットがあったのです。(女らんまがヒロインか? という問題は泥沼化する難しい問題ですので、今回は触れないようにしておきますw)
紙製でなく、クリアファイルに使うような素材なので、簡単にふやけたりせず、結構お気に入りだったのですが、ふとした時に1個だけどこに行ったか行方がわからなくなってしまっていて。
何度か探してもみつからず、自分の中で何とも言えぬ喪失感をもっていました。

そもそも、その栞を使うということは、その当時には「この本はちゃんと読もう」と思っているものであり、捨てたり売ったりするような本の中には紛れているはずはないのです。
そんな無くしたと諦めていた栞ですが、実は昨日、ふと思い返して開いた本の中で偶然に見つけることができたのです。
サプライチェーンマネジメントの理論と実践』という本です。
https://www.amazon.co.jp/dp/4344971337


昨日は、たまたま今までの仕事のことなどを振り返っていて、その中でたいせつだと思い直した本を開いたところ、発見することができました。
別の栞、というかPostItが入っていたのが原因で、今までは見つけられなかったのですね。昨日のように、ゆっくり開いて内容を読もうとしなければ、見つけられないものでした。

それで何かが変わったか、というと、特になにも変わってはいないのですが、自分の振り返りによって何かのきっかけを得られた様に感じています。
だから何なんだ、という話ですが、こういうふとしたきっかけでも、何か改めて前に進むきっかけになりそうな気がする、という単純な思考の話です。

自分のやわい考えの部分は、こんな感じではありますが、まぁこういうゆるい話でも書いていければと。書いているうちに、やわい考えも少しずつ言語化できていくかもしれないですしね。

あ。とりあえず、自分の振り返りの内容を記録のためにエッセンスだけ残しておくと、結局のところ、自分が一番足りていないというか困って躓く根幹になる所は、問題解決の力なんだろうな。ということです。
そのベーシックなスキルの向上なくして、自分の成長はありえないのかな、と。

理屈はわかっても、なかなかスキルを向上させるのは難しいし、現実的な問題は理論とは違う制約(人間関係とか、立場によって求めるものが違うとか)があって複雑化しやすい所もありますが、日々色々と考えていければ、と。
理論上の最適化問題を解くというより、goodでなくbetterな解答の方向性を示し、実際にそれを実現する、ということが求められていると強く思います。実践できてこその理論、ということでしょうか。こういうのを自分なりの「哲学」とも言う気がしますね。

とりあえず、わっしょい、わっしょい、頑張っていきます。

「理解する」ということ

我ながら、実に無駄な知識を貯め込んできたものだ。
改めてそう思う今日この頃です。

年々と増えるマンガだけではなく、たまには活字の本も購入したりしますが、なかなか自分の身にはなりません。
そもそも、本を読むことがあまり習慣化していない上に、本を読むことが遅いため、途中でやめて、寝かせておくことが多いですね。
何となくで中身はふんわり覚えているので、読み返してもわかることはありますが、それでも昔に比べて記憶力は悪くなってきた気はします。

「若さに任せたプレーはできない」というヤツですね。
あまり、勉強の方法論などは考えずにやってきましたが、ある程度は「理解する」という事を体系立てて考えた方が自分の身にもなる気がします。
枝葉の知識を集めて集めて、それで木のように見せかけても、それは所詮は見せかけなので、幹も根もないあやふやな木は、誰かを木として納得させるものには到底なりえないのだと思います。

そんなこんなで、前置きが長くなりましたが、「理解する」というのは、どういうレベルがあるのか、少し段階を分けて考えてみました。
ポイントになるのは、「誰かに説明ができるか」。言い方を変えれば、アウトプットとして、どの程度の人たちにどの程度の納得をしてもらえるか? ということだと思います。
さらにその軸とは別に自分にとって必要かどうかの評価軸("必要"というのは、自分の仕事や生活にとってどれだけプラスになるか?と考えるとわかりやすい)があれば、自分ができることや足りないことは何か。逆に自分がどれくらいの無駄な知識があるか、などが見えてくる気がします。

以下、私の独断と偏見による、”理解度”へのレベル分けです。

レベル0:全く知らない。聞いたことがない。

レベル1:キーワードを知っている。話を聞いて大まかなイメージが浮かぶ。表面的な説明はできる。
(「個」として事象・知識を把握しているレベル。木を見て森を見ずな程度)

レベル2:聞いている内容が理解でき、かつ他の事項との関連がわかる。大まかな俯瞰ができており、自分と同等かそれ以下の理解度の人にはハッタリで説明して納得してもらえる。
(「個」としてだけでなく、全体感が分かっているので、木だけでなく森もイメージできている。ただ深く突っ込んだ所まではまだ分からない。)

レベル3:1つの事象・知識をきちんと理解し、自分の見解も交えて意見を述べることで相手(数人程度)の納得を得ることができる。
※レベル1の表面的な理解やレベル2の全体感は前提として、レベル1の個別な理解を詳細に掘り下げたイメージ。自分の見解を述べる為には、自分の中で知識や経験を消化しきれていないと難しいはず。
(世間的には多少は"専門性"があるとみなされ、ある程度の報酬を貰える程度のレベル。ただし、発言自体にもプロとしても責務・重さが伴う)

レベル4:複数の事象・知識を関連付けてきちんと理解し、自分の見解も交えて全体から個別へストーリー立てて説明し、相手(数人~10数人程度)から納得を得ることができる。

各事象に対するレベル3程度の詳細な説明についても位置づけ・意図を理解でき、他に関連する別のレベル3程度の理解者への橋渡しができるレベル。
1+1=2というだけでなく3にも4にもできるようなコンサル力もそうだが、「こういう関連で結びついていくだろう」という大きな"筋"が自分の中にあり、そこに対するFit&Gapで自分の知識を現実で直面する問題との折り合いを上手くつけていけるイメージ。
※わかりやすい例を含めて説明できることが望ましい。

レベル5:上記のレベル4の理解・知識を更に昇華し、抽象的な体系だった観点で事象・知識を整理・把握し、説明することができる。大勢の相手に対して、納得を得ることができる。
(本が書けるレベル。講演できるレベル。)
ITILPMBOKのような、体系だったノウハウや実感の伴った理論に基づいた理解ができていないとこうはならない。ここまでの歴史についても語れるとbetter。

自分はレベル1やレベル2くらいには到達することは多くても、レベル3まで到達することは少なく、さらにレベル4に至ってはほぼ皆無と言ってもいいくらいでしょう。
ただ、自分が”専門”とすることについては、レベル4くらいの理解は得ておきたいものです。そういうところを意識して、定期的にOUTPUTもしていかなくては、理解度は高まらないのだなぁ、と。
レベル5は、ちょっと一朝一夕では無理かもですが、ライフワークとしていくべきモノに対しては欲しいレベルですね。

 
また折を見て見直すかもしれませんが、だいたいそんな感じで。
※なんか、イメージ的にキャズムを抜けるようなイメージがレベル2~3への壁な気がしなくもない。そんな発言そのものが理解の浅さを示していますね。イメージ的な大体わかりは効率はよくても、本当の理解とは違うようです。